平成30年は明治維新150周年です。

かごしま明治維新博PR大使 桜庭ななみ

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記事一覧

意外と知られていない県内各地の幕末・明治維新こぼれ話(その6)

第6回しっちょいどん 隼人町史談会長 有川和秀さん

島津斉彬、山ヶ野金山の足跡「不諼(ふけん)石」

山ヶ野金山内とされる湧水町國見岳(648m)頂上からは、四方を見渡せ、遠く桜島も眺望できます。ここに「不諼石」と記す自然石があります。
 斉彬は東目巡見で山ヶ野金山に来山し、國見岳登りをされました。周三里にも及ぶ山ヶ野金山の全山容を眺められたことでしょう。それを記念してこの「不諼石」は建てられたものと言われています。

「不諼」は「ワスレナイ」との意味で、山ヶ野金山には次のような伝承があります。

國見岳登りの際には、斉彬の乗った籠を金山の人達が担ぎました。斉彬は登り坂の途中、わざと籠を揺らし担ぎ手を困らせ、「殿さあが、わやくしいやっでこらのさん。(殿様が冗談をされるので、これはたまらん。)」と言うと、「もうせんないもうせんない。(もうしない、もうしない。)」と言いながらまた繰り返し、金山の人々と談笑を交わしたといいます。不諼石建立の陰には藩主と金山の人々との親密なひと時があったのでしょう。山ヶ野には史料「國見獄御埜建諸入目之留」が残っており、それによると二か月前から公の来山や国見の準備が進められました。

嘉永6年の東目巡行では山ヶ野金山に2泊し、「採鉱ノ法御指揮アリ」とあるように、現場に赴き具体的な指導までされ、金山金掘歌も作り残されています。

「不諼石」は、島津斉彬の近代化への強い志と藩主としての人となりを想い起こさせてくれます。


    <國見岳に建立された「不諼石」>

意外と知られていない県内各地の幕末・明治維新こぼれ話(その5)

第5回しっちょいどん NPO法人かごしま探検の会 東川隆太郎さん

農政のお仕事をしていた西郷隆盛

若い頃の西郷さんは、郡方に務めていて藩の農政に関する仕事に従事していた。その集大成といえるのが、安政3(1856)年に西郷さんが藩に提出した農政に関する上書である。これは、藩の農政の長所や短所を的確に捉えていて、しかも解決策まで提案しているというもの。例えば、農民の人口が安定することが藩にとって大切であるから、農民が開拓した土地からすぐに年貢をとるようなことをしてはならないと指摘している。また、新しい土地を求めて移住した農民が移住した地域で犯罪人のような扱いを受けているのはかわいそうなので、孤立しないように地域の仲間もいっしょに移住させる政策をとるようにすればいいことも記している。こうした視点は、西郷さんがしっかりと農政に関する仕事を現場で行っていたことが理解できるものばかりで、農民に対するやさしさを感じさせるものである。若い頃のこのような現場での仕事が、西郷さんを一段と成長させたのかもしれない。

意外と知られていない県内各地の幕末・明治維新こぼれ話(その4)

第4回しっちょいどん NPO法人かごしま探検の会 東川隆太郎さん

島津斉彬公の指宿訪問

指宿の温泉は、島津斉彬公のお気に入りであったようだ。江戸生まれで江戸育ちの斉彬は、鹿児島に5回だけしか入国していない。そのうちの三回となる弘化3(1846)年、嘉永4(1851)年、安政5(1858)年に指宿の温泉を訪問している。指宿の二月田には殿様湯と呼ばれる温泉が今でもあるが、そこには藩主らが利用できる施設があった。ここを拠点として斉彬公は、地元の豪商・浜崎太平次と交流を持ち、周辺の井戸掘削などを命じたりしている。弘化3(1846)年11月2日には温泉施設が火事となり、指宿港近くにあった浜崎太平次の屋敷に避難している。また、安政5(1858)年3月には山川港で、幕府の海軍練習船で訪れた勝麟太郎(海舟)と会見している。海防視察や交流も目的であったようだが、やはり肝心の温泉がお気に入りであったことが、鹿児島城下以外の他の地域とは比べものにならない滞在期間の長さにつながったのであろう

意外と知られていない県内各地の幕末・明治維新こぼれ話(その3)

第3回しっちょいどん 尚古集成館 小平田史穂さん

幕末、薩摩藩の近代化と薩摩切子

みなさんは薩摩切子を見たことがありますか。グラス、花瓶、ペンダントなど、現在作っている作品はどれもキラキラと輝く美しいものばかりです。今や県を代表する特産品の1つにもなっている薩摩切子は、かつて途絶えた歴史をもっています。途絶える前に、いつ作っていたかというと、幕末です。
 鎖国中の日本に対し、外国が武力をちらつかせながら開国を迫っていた時代。今で喩えるならば、日本の上空に、武器をつんだ宇宙船がやってくるようなものです。とても怖いですね。そんな中で、薩摩藩は今と同じように美しい薩摩切子を作りました。実は、日本中を探しても、幕末に薩摩切子のような高級美術品ともいうべきガラス器を作った藩は、どこにもありません。ガラスを扱った藩はありましたが、それは理化学実験用のビーカーや薬ビンが主です。他の藩は、大砲や台場の整備など軍備に注力しました。
 薩摩藩で近代化を推進した、島津家28代斉彬は「富国強兵」をスローガンとして「豊かな国づくり」を推し進めました。軍備だけではなく、人々の生活を豊かにしなければ日本を守れないと考えたのです。薩摩切子は、薩摩から発せられた「豊かな国」の象徴の1つと言ってもいいでしょう。

藍色栓付小瓶

意外と知られていない県内各地の幕末・明治維新こぼれ話(その2)

第2回しっちょいどん NPO法人かごしま探検の会 東川隆太郎さん

西郷隆盛の盟友・桂久武の霧島開拓

桂久武(かつら ひさたけ)は、薩摩藩最後の家老のひとりでもあり西郷隆盛の盟友でもある人物だが、案外功績や人柄などは知られていない。日置島津家に生まれ、武士としての身分は高く、兄のひとりにはお遊羅騒動で切腹するに至った赤山靱負(あかやま ゆきえ)がいた。始めは島津歳貞(しまづ としひさ)を名乗っていたが、桂家を継ぐことになり、久武を名乗るようになった。薩摩藩においては家老として活躍し、明治維新後は都城県知事などを勤めた。領地持ちの家柄だけに家来を多く抱えており、慶応3(1877)年から現在の霧島神宮近くの土地を家臣らと開墾するようになった。その後におこる版籍奉還(はんせきほうかん)や廃藩置県(はいはんちけん)を見通しての行動ともいえる。つまり、武士の世の中が終わろうとするなかで、自分たちで食べていく道筋を立てるというものの先駆けでもあった。しかし、西南戦争が始まると盟友の西郷と共に城山の戦いまで従軍し、亡くなることになり、自身の開墾の夢は立ち消えとなってしまう。ただ、現在も開墾した地域は「桂内」という地名が残り、静かに桂久武の想いを伝えてくれる。

意外と知られていない県内各地の幕末・明治維新こぼれ話(その1)

第1回しっちょいどん NPO法人かごしま探検の会 東川隆太郎さん

英国だけでなく米国にも留学生を派遣していた薩摩藩

慶応元(1865)年、薩摩藩が国禁を犯しながらも英国へ留学生を派遣したことは、鹿児島中央駅前の銅像やいちき串木野市の羽島にある英国留学生記念館等で、よく知られています。
しかし、その翌年となる慶応2(1866)年にも薩摩藩は米国へと横浜から留学生を派遣していたことはあまり知られていません。その人数は7名で、英国留学生同様に帰国後には、様々な分野で活躍しています。
吉原重俊(よしはら しげとし)は初代日本銀行の総裁となり、仁礼景範(にれかげのり)は海軍大臣に就任しました。
さらに谷元道之(たにもとみちゆき)は東京株式取引所長を務め、湯地定基(ゆちさだもと)は貴族院議員と皆明治政府の要職に就いています。
このように、英国留学生同様、薩摩藩が藩費で育成した人材が、日本のために様々な分野で活躍したのです。